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日本のミッドセンチュリーシーンを支えてきたデザイナー達vol.3

Vol.3 デザイナー 柳 宗理

柳宗理

柳宗理(やなぎ そうり)
この名前はどこかで一度は聞いたことがある人がほとんどではないでしょうか。
それはデザインの本で、もしくはインテリアショップで、もしかしたらテレビで見たなんて人もいるでしょう。
日本のデザインを牽引してきた柳宗理さんは、ミッドセンチュリー期にあの有名なスツールを世に発表しました。
蝶が羽を開いてじっと佇むような美しいカーブを持った成形合板のスツール、"バタフライスツール"です。

柳宗理

スツールを発表した1950年代は3次元曲線をもった木製の家具を作ることはとても難しく、全体を2つの成形合板と1本の金属で構成されているシンプルさも加わって世界がこのバタフライスツールを賞賛しました。
日本のミッドセンチュリー期を語る上で欠かすことの出来ないデザインであるといえます。
柳さんに関する書籍も多数出版されています。
その中にはル・コルビュジェの協力者であったシャルロット・ペリアンと写っている写真もあります。
商工省の「輸出工芸指導顧問」としてペリアンが来日した際に、柳宗理が案内役をつとめたという話は有名ですね。

その頃、どのような会話が交わされていたのでしょうか。
写真の中で談笑する2人を見て、当時の彼らの考え方や人柄、お互いの関係性に興味を抱き、
柳工業デザイン研究会の藤田さんにお話を伺ってきました。



  【柳宗理さんはどのような印象の方でしたか。】

「仕事の時はとても厳しい人でした。OBは40人くらいいるのですが、みなさんそう言います。
先生がいると空気もぴりぴりしていてそう簡単に話しかけられないような雰囲気の人でした。
だけど仕事を離れるとどこにでもいる気さくなおじいちゃんですね。 冗談も言ったりするし。」



【シャルロット・ペリアンとはどのような間柄だったのでしょうか。】

「柳先生にとってペリアンは先生だったのですよ。
直接ペリアン先生とは呼びませんが、彼女がこの事務所に来るときにはとても緊張していました。
それこそ僕らが柳先生に対してするみたいな緊張感をだしていました。
ペリアンは宗理、宗理と呼んで弟のように思っていたようですが、仕事になると相当厳しかったようです。
彼女は自分がやりたいことを実現するために職人との対話をとことんして、納得するまで続けて、そのために寝ないで仕事をすることも普通でした。
僕らが厳しいと思う柳先生がさらに厳しいと評価する人ですから、相当厳しかったと思いますよ。」



【何か趣味を持たれていましたでしょうか。】

「仕事が趣味の人でした。月曜から日曜までずっと仕事をしていましたね。
事務所ができた当時は土曜日が休みという概念はなくて、半ドン(※午後がお休み)が一般的だったのですが、柳事務所は珍しく土日がお休みでした。
月曜から金曜まで働いたら、土日は美術館に行ったり本を読んだり、自分の研究のために使いなさいという考え方でしたから、先生自身も土日は民芸館の方に行って仕事をしたりしていました。 お正月しか休まない人でしたね。

趣味とは違いますが、昔はスタッフが当番制で昼食を作っていました。ここには1つしかコンロがないので、いかに調理するかというのを男女問わず、わざとさせていましたね。それもデザインだと仰って。
冷蔵庫の中身を見て、買い出しに行って、冷蔵庫の中身と照らし合わせてお財布を見ながら献立を考えていく、主婦が毎日しているこれだってデザインなのです。
あと、ここで調理器具や食器もデザインしますので、実際に使っての意見を聞くような場でもありました。」

柳工業デザイン研究会
柳工業デザイン研究会

【デザインに対してストイックなまでに真摯だったのですね。】

「我々が食器や家具のデザインを作るにあたって、先生に意見を求めたりすると、
『他とどう違うのだね?』
とよく言われました。
椅子はそもそも海外からきたもので、既に普及しきっている。その中で他の椅子とどのように違うのか、格好だけ求めてもだめだよと。
座り心地が良いのは勿論のこと、新しい技術や材料の情報なんかをどんどん取り入れて、他にはない特徴のあるものでないといけない。
似たようなものばかり作っていては、デザインする意味もないと仰っていました。
ただ、新しい技術だからと言って、安くて量産出来るプラスチックを使おうとかはしませんでした。 必ず使い勝手にあう材料かどうかを判断して選んでいます。」



【ユーザーの事はどう捉えていたのでしょうか。】

「ユーザーは常に僕たち庶民です。だから僕たちが買いやすい金額である事を念頭にデザインしてきました。
ですので、メーカーにデザインを出して高額だったりすると、持ち帰ってデザインを考え直したりしていました。」



【あのバタフライスツールも使われている樹種が変遷しているのはそのためでしょうか。】

「もちろん、柳先生の意向あってですが、まず入手しやすい木を使っていました。それは100年、200年経っても作れるということを保証しなければならないからです。
当初はカバザクラで発表しましたが、量産品になってからはローズウッドで、その後メープルが加わりました。1980年代にローズウッドが枯渇してきた時期がありましたので、メープルは海外の方向けのひと回り大きな国際サイズを発売した時に使い始めましたね。
その後、もともとのサイズを作りたいとなった時にまたローズウッドを使うことになって、今はローズウッドとメープルで作っています。
時代を追ってアクリルで作られたものもありましたけどね。」

バタフライスツール

【ユーザーの反応を感じることはありましたか。】

「今でこそ柳デザインはどこでも買うことができますが、昔はメーカーが製作のみで販売はしなかったので、自分たち(柳ショップ)で仕入れてデパート等の店舗に売っていました。言わば仲卸ですね。
昔は卸した商品の情報なんて届かないのが普通でしたから、柳ショップはユーザーの意見を聞く実験的な場でもありました。
もちろん良い意見ばかりではありませんでしたので、それを売り続けるにはどう改良すれば良いかに取り組めるのです。
柳ショップは1970年頃からありましたので、そういう意味ではユーザーの反応はいつも感じて気にしていました。」



【現在と将来の日本のデザインについてお聞かせください。】

「今は100円ショップみたいに作る側も使う側も簡単に手に入って捨てられるものを選んだり、インターネットのボタン一つでものが買えてしまう。
作る側も使う側も、見て、触って、感じて、納得してものを選ぶ、ものと真剣に向き合うことを今の時代こそ大事にして欲しいと思います。
私たちのものづくりは時間がかかり過ぎだと言われますが、私たちの商品は、本当に納得して自信を持って世に送り出せるものでありたいのです。
だから商品のデザイン、製作、販売それぞれに携わる者たちが、一体となってユーザーに関わることが大事で、商品が作られた背景をしっかりユーザーに伝えて納得して使っていただく。
それで使っていてどこか不具合が出た場合はメーカーに戻ってきてメンテナンスをする。壊れたから捨てるのではなく、愛着を持って使って欲しいと思います。
私たちもその不具合を解決するために改良をしていく。これからもそうしていきたいと思っています。」


ものづくりは作って終わりではない、という言葉はよく耳にします。
ですが、その言葉の意味が、ものづくりからユーザーまでサイクルになってこそのものづくりである、という事までは真剣に考えた事がなかったように思います。
私たちが何かを選んで買うということ、それをどう使うのか、それこそ自分もその商品のデザイン(ものづくり)に関わっているということになります。

日本のミッドセンチュリーを牽引したバタフライスツールは、柳宗理さんの理想の象徴でもあるのだと感じました。




柳 宗理(やなぎ そうり)1915〜2011
1915年東京都生まれ。東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業後、1942年に坂倉準三建築研究所に入社。1953年に財団法人柳工業デザイン研究所を設立する。
数年間の研究開発を経て、1956年に銀座・松屋で開催された柳工業デザイン研究会個展で発表した。
1958年には、バタフライスツールがニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションに選定されている。
日本のミッドセンチュリーのインダストリアルデザインの確立と発展における最大の功労者と言われる。
父は柳宗悦、祖父は柳楢悦。


<<Vol.1 成形合板技術のパイオニア 天童木工を読む。
<<Vol.2 デザイナー 水之江忠臣を読む。